そういえば、ぼくの人生の目標について

「おまえはなぜ生きる?」

 

この質問に答えられる人が一体どれだけいるだろうか。

 

人は生まれたとき、自分から望んで生まれた訳ではない。

誰かに望まれて生まれた。

 

生物は生まれる前から、他との関係の上で存在している。

だから、人が誕生したときに、自分が生きる意味など持たない。

生かされているだけ。

 

そして人は自我を持ち、自分が生きる意味を求め始める。

悲しいことに、人間は生きる意味がないと生きられない。

おかしな話だ。

 

他に望まれて生まれてきたのに、自分が意味を見いださないと、生きていけないのだ。

 

とても滑稽。

けれどそれが人間。

 

無駄に脳が発達してしまったから、自分が生きる意味を考えられるようになってしまった。

これがどれだけすごいことかは、人間以外の生物を見ていればわかる。

 

一方で、すごすぎるが故に厄介でもある。

意味が見いだせないと、生きるのがつらい。

 

人が物心ついて、最初に見いだす意味は、ほとんどの場合「親のため」だ。

まだ自分では、なにもできないこどもにとって、親はすべてだ。

親が喜んでくれることが嬉しくて、こどもは生きる。

 

だが、自分で生きる力が身について、自立心が芽生えたころ、はじめて自分で、生きる意味を考えるだろう。

 

極論だが、人は何かしら生きる意味があるから生きていると考えている。

なぜなら、生きる意味がないなら死ねばいいからだ。

 

生きる意味がない=死ぬ

生きる=意味がある

 

そう考えている。

言葉にはできなくても、みな何かしら生きる意味があるから生きている。

じゃあぼくはなぜ生きるのか。

 

それは成し遂げたいことがあるから。

 

「大量消費の社会を終わらせて、自然やモノがより大切にされる世界を創る」

 

これがぼくの人生の目標みたいなもの。

ぼくのやっていることは全部この目標のためになっている。

 

どうして成し遂げたいか、

それはぼくが旅をしているときに、とても美しい景色の横に大量にゴミが捨てられていて悲しくなったから。

カナダのファストフード店で、まだ食べられるポテトが大量に捨てられていく光景を見て、なんとも言えない気持ちになったから。

 

きっかけはたくさんある。

 

ただぼくは、

こんな世界が、カッコ悪いと思った。ダサいと思った。美しくないと思った。

 

だからもうちょっと美しくしたいと思った。

だから変える。

 

そう決めた。

そして、モノを大切にできる人は優しいし、カッコいい。世界がそんな人たちで溢れたら、世界はより美しい。

人生を賭けて登る山だと直感した。

 

決意してから一年が経とうとしているが、まったく揺るがない。

だからぼくは強い。

 

一見関係なさそうなことでも、繋がっている。

適当に生きているように見えて、ある程度考えて生きているから(笑)

 

成し遂げるための軸が3本あって、この3つの分野を合わせたりして色々なことを仕掛ける。

詳細は書かないが、大体やることは決まってる。

 

目的が明確だから、あとは手段を見つけて、見つけたら、ひたすら突き進んでいく。

ぼくは完全に山登りタイプ。

 

人には2パターンある。

山登りタイプと、草原タイプ。

 

目標のために突き進むタイプと、その瞬間やりたいことをやっていくタイプ。

深くじっくりと、浅く広く。

 

ぼくは前者だ。

登る山を見つけられたから。

 

どちらがいいわけでもなく、ただタイプの問題。

よく、やりたいことがわからないと言う人がいる。

 

それは単純に自分を知らなすぎるからだ。

自分の心が何に感動して、何に心揺さぶられるのか知らないから。

 

まず己を知るところから始まる。

 

己を知るためにはどうするか?

それは、外の世界を知ればいい。

自分が何かに触れたときどう感じるのかで判断するしかない。

己を知るなら、己以外を知る必要がある。

 

だから行動すればいい。

すべてはそこから始まる。

 

生きてるってことは、明日死ぬかも知れないってこと。

明日死んでもいいよう生きないと、きっと後悔してしまう。

 

だからぼくは、明日死んでもいいように、行動する。

自分が生きたいように生きる。

命を賭けてやりたいことだけに時間を使う。

 

いまこの瞬間、ブログを読んでいるあなたも、あなたの人生を賭けてぼくのブログを読んでいる。

読んでくれてありがとうございます。

 

 

ちなみに、ぼくが生きる意味はもう一つある。

生きてる方が死ぬよりは面白そうだから。

きっとこれが本音。

もしかすると、案外簡単な理由で生きているのかもしれない。