「死にたい」なんて言ってる人が苦手だった自分がまさか死にたいと言うなんて。

先月、ぼくは生まれて初めて心が崩れた。

崩れたと言っているのは、どうも「折れる」という表現よりもいびつに積みあがったジェンガがぼろぼろと崩れていくかんじに近かったから。

 

いま思うと、ぼくのこれまでの人生は、嘘でかためた土台の上に無理をしてジェンガを積み上げたものだった。

だから、崩れてしまうのはおかしいことではないし、むしろ自分で崩したのかもしれない。

 

 

なにも手につかなくなった。

本屋の開店準備も、読書も、人と会うことも、自分がやりたいと思ってやっていたことができなくなった。

かろうじて食事はとって、ずっと天井と海を眺めるだけ。

 

自分には縁がないと思っていた「やりたくてもできない」とか「死にたい」なんて言葉も常にあたまのなかをグルグルしていた。

原因はムダに抱え込んでいたプレッシャーだったり、失敗の連続だったり人間関係のストレスやら自分の本心と言動のズレとか、もう色々耐えきれなくなってしまったからだと思っている。

 

何人かの友人知人に迷惑をかけてしまったし辛かったけど、大切な経験をした。

自分の失敗が自分と同じ道を行く人の支えになってくれたら嬉しいので、ぼくが得た発見と気づきを書こうと思う。

 

自分と向き合ったつもりでいた

先月、ぼくは初めて「自分」と向き合った。

昔からずっと自分と向き合っているつもりでいたし、自分のことをよく知っていると思っていた。そして自分はかっこいいと思っていた。

 

でも初めて直視した「自分」は違った。

本当の自分は全然かっこよくなかったし、自分自身と向き合うことから逃げているクソ野郎だった。

 

 

ぼくは物心ついてからずっと、自分への期待が強い

だから、常に「自分はもっとできる」と思っている。

中学生のときも、95点をとった答案でも「100点じゃないじゃん」って気に食わなくて破ってすてるような試験が何回もあった。

プログラミングをかじって、こどものわりにはかっこいいサイトをつくったときも、「あの自分がかっこいいと思うサイトに比べてこんなのゴミだ」って消した。

 

おそらく一度たりとも「自分」という存在を自分で認めたことがない

ずっーと、自分ではない理想の自分を求めている。

いまの「自分」とは向き合わずに「かっこいい理想の自分」ばかりを見て、弱くてなにもできない自分はだめだと否定した。

そのくせ反省して改善してその理想に近づくわけではなく、悔しがるだけ。

 

ただ自分を傷つけたいアホだった。

 

最近になってようやく、自分は承認欲求がとても強いことに気が付いた

他者から認められたいという他者承認と、自分を認められるかという自己承認、両方とても強い。

 

誰よりも尊敬されたいし、特別な存在でありたい。モテたい。必要とされたい。そして他者から認められるような自分になりたいから理想がものすごく高い

お金があって、いろんなことを知っていて、清潔で、おしゃれで、頭がよくってetc…

 

自分は特別だと思わなければ悲しくて生きていられないから「弱くてなにもできない無力な自分」を自分だと認めようとせずに、

勝手につくりあげた「理想の自分」を自分だと思って、それに合わせて自分を偽って生きていた。

 

そうじゃないと認めてもらえないと思い込んでいた

誰も「○○なあなたじゃないと認めない」なんて言っていないのに、自分でそうじゃないといけないと思い込んで、でもそうなれなくて辛くなる。

一生満たされないループのなかにいた。

ぐるぐるー。

 

それを知ったとき、恥ずかしくて死にたくなった。「なんてかっこ悪いんだ、自分の意志なんてないじゃん」と。

自分が気持ち悪くて鏡すら見たくなかった。いままでの人生を振り返っても全部気持ち悪くて「うわーーーー」ってなった。

一カ月間、すさまじい自己嫌悪に陥っていた。

そんな自己嫌悪に浸れる暇がある自分すら嫌で、どうしようもなかった。

 

 

高校を辞めたのも、飛び級したのも、日本一周したのも、起業するのも誰かに認めてほしいからだったなんて。

 

大量消費的な現代社会を変えたいとか、誰かに幸せになってほしいとか、その想いは間違いじゃないけど正解ではなかった

気づいたはいいけど、そんな自分を認められなかった。自分がただ認められたいために人目を気にして行動していたなんて切なくなる。

だから自分を直視するのが怖くて行動できない。

その繰り返し。

またぐるぐるー。

 

 

でも、やはりぼくはずっと愛されたかった。認められたかった。

「すごい」って言われたいし、「好きだ」と言われたい。「あなたが必要」と求められたい。

「なにもできないあなたでも愛してる」と言われたいし、すべてを肯定されたい。

 

こんなにも愛されたいと思うのはきっと寂しかったから。

ぼくは母親って存在をよく知らないし、養子なんて家庭はまわりにはなかった。

加えて、それなりに色んなことができたからよく「すごい」とか「さすが」って言われて、ずっと人との距離をかんじて生きてきた

 

なんでぼくはみんなと違うの?という気持ちをずっと心の奥に押し殺してきた。

だって言えるわけないじゃん。おとなだって頑張って生きてることくらいわかるし。言っても現実は変わらないんだし。

素直に言葉にできるこどもだったら楽だったのかもしれない。まぁ寂しいのが当たり前すぎて、今頃になって自分は寂しいと感じていたことに気づいたのだが。

 

見失った

だったら、認められたいがために行動してきた自分ってなんなんだ。

ぼくはなにがしたいんだ、なんのために生きているんだ。

 

わからなくなってしまった。

だから思い出そうと必死に自分のなかをさがした。

「自分が好きなことはなんだっけ、自分が楽しい瞬間はどんなときだっただろう、なんでこんなにも嫌な思いをしてまで本屋をやろうとしているんだろう。」

 

部屋でこもっていても思いつかないから、実家に行ったり実の父親にも会ったり、日本一周で一番最初に訪れたアスパラ農園にも行った。

生まれ育った地を散歩して、高校の同級生にも会って、仲いい友達と遊んだ。

そうして気が付いた。

意外と自分が好かれていることに。

落ち込んでどうしようもなくなったから、悔しかったけどフェイスブックで「もうだめです休みます」と書いたら、励ましてくれる人やアドバイスくれる人、そっとしておいてくれる人がたくさんいた。

実家に帰ったらみんな歓迎してくれるし、友達は励ましてくれるし、一緒におしごとする人は鼓舞してくれる。

 

十分に愛されてるじゃん、これ以上なにを求めてるのってくらいに、ぼくは多くの人に認められているし、好かれていた。

 

嬉しかった。

嬉しかったけど、だからといってすぐに自分の承認欲求が満たされるわけはない。十数年も抱いていた感情はそんなすぐに消えてくれない。

 

 

でもやっと認めることができた。

自分はものすごく愛されたかったことと、意外と愛されていることに

 

あとは、いろんな経験をして、自分の得意と好み、傾向をよく知ること。小さくていいから成功体験を積み重ねること。

そうしていけば、遠くないうちに心から「自分」を認められる。

心技体が一致して誰かを愛せるようになるのも、本当にやりたいことができるのも、そこからなのかなと思っている。

 

マズローの5段階欲求は正しいのかもしれない。

 

残念ながら自分は人間でしかない

いつからだろう。気持ちと言葉と行動が一致しなくなったのは。

どんどん離れていく心と言葉に目を背けたところで、辛いのは変わらないのに。

それがおとなになるということなのか、はたまた過ちというものなのか、生き抜くすべなのか。

どうして大切なものは見失ってしまうのだろうか。

 

 

よくわからないけれど、地球っていうシステムも、人間っていうシステムはぼくなんかでは計り知れないほどよくできているものだから、深く考えずにできることをやっていきたい。

繁殖を目的とする生物である人間が「なんで生きるのか」を考えられるのは、人間が増えすぎないためだと思っている。

こどもをかわいいと認識するのは、おとながこどもをかわいいと思わないとこどもを育てない=種が繁栄しないので生物としてよくないから。

 

自分の思考や行動というのは自分が「人間である」ということに強く依存している

そもそも決められた枠のなかで生かされているのだから「自分の意志」なんてたいしたことはない。

だからいい意味で割り切って生きていこうと、自分と向き合ってわかった。あきらめきれないこともたくさんあるけど。

 

心配してくれた皆さまありがとうございます。そこそこ元気になりました。