平田オリザさんのワークショップを通して学んだ4つのこと

12月17日、劇作家の平田オリザさんのワークショップイベントのスタッフをした。

主催は、高校三年生の谷川清夏さん。

はじまりは、スタディサプリの提供している西野亮廣さんと藤原和博先生の講義。

 

7月の講義で、西野さんから「お前ら全員夏休み中に一回クラウドファンディングしてみ!」

って言われて平田オリザさんにどうしても会いたかったから、自分でイベントを作ろうってことで企画を立てて、クラウドファンディングをして資金を集めた。

 

そして、先日、無事実現した。

 

正直、あまり平田オリザさんのワークショップ自体に興味はなくて、ぼくは単純に清夏さんに協力したかったからしてただけなんだけど、

 

このワークショップが大変勉強になった。

なので、今回学んだことを忘れないうちに書き留めたい。

 

今回のワークショップのテーマはコミュニケーション

能がない大人は、いまの若者はコミュニケーションが足りないと言う。

そのクセに、そのコミュニケーションについて論理的に説明してる人は数少ない。

 

「そのコミュニケーションとかいう抽象的な言葉の正体は一体なに??」

この問いについて、ぼくは今回平田オリザさんから大変多くのことを学んだ。

久しぶりにたくさんメモった。

 

自分と他人の認識は違う

まず、自分と他人の認識は違う。

 

さくらの花を見て、

ある人は美しいと思い、

またある人は宴会がしたいと思う。

 

”ちょっと”という言葉だって、

ある人は小さじ一杯分だと思うが、

またある人は1カップだと思うかもしれない。

 

目の前にあるユリの花が、隣の人にも同じユリの花に見えているという確証はどこにもないのだ。

あり得ないがもしかしたら、その人は紫外線(不可視光線)が見える特殊な目をしているかもしれない。

 

人の感覚、認識はわからない。

 

「人はわかりあえないのが前提なんだよ。」

ってオリザさんが言っていて、ぼくはその瞬間この人好きだなって思った。

 

個人的な意見だが、人は分かり合わなくていいと思っている。

ただ、否定さえしなければ。

 

オリザさんも言ってた

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とことん話し合ったって、キリスト教の人をイスラム教にはできない。

お互いが譲ることのできない価値観を持っている。

 

だから、「とりあえず首都はココね。」とか「ひとまずこういう条約をつくって、休戦しよう。」とかお互いにとりあえずこうしようと言って妥協点を探す。

 

異文化コミュニケーションとは、分かり合えない寂しさに耐えることなんだよ。

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って。

 

オリザさん、16歳のときに自転車で世界一周しているらしい。

きっと、ぼくには想像もできない濃くて、切なくて、楽しい経験をしている。

優しくてキレイな瞳してた。

 

本当の自分なんてない

若い子は「本当の自分はどこにあるんだろう。」と悩むことが多いらしい。

 

学校では友達に合わせて、先生の言うことを聞いて生活する。

家に帰ったら、親の顔色をうかがって生活する。

周りに合わせて、周りの期待に応える。

 

真面目でいい子ほどこの悩みは強いらしい。

 

けれどオリザさんはひとこと、「本当の自分なんてない!」と言った。

人は色んな自分をもっていて、社会的役割を演じて生きているんだと。

 

父親としての仮面、会社の係長としての仮面、奥さんに甘える夫としての仮面。

色んな仮面をとったりつけたりして生きている。

 

若い子がなぜ「本当の自分はどこにあるんだろう。」と悩むのか?

それは、近年学校という仮面が重くなっているから。

 

昔だったら、放課後になったら、近所の空き地で年上のお兄さんやお姉さんと遊んだり、学校以外の場での生活時間も多くあった。

けれど、最近は学校と家の二つの仮面しか持っていない子が増えている。

 

ひとつの仮面に偏りすぎると疲れてしまう。

ずーーっと同じキャラを演じるから。

 

ほんとは「もっとこんなことしてみたい」とか、「こんなキャラもいいな」という願望が誰しもあるのに「自分のキャラじゃないな、浮いてしまうと恐いな」っていう感情が先行してくる。

 

それで、ふと、自分が学校にいたときよりも、いまの方が人間関係が圧倒的に楽しい要因のひとつはそれなんだと気付いた。

3歳から70歳くらいまで幅広い人と交流があるし、コミュニティも複数行き来してるし、仲の良い同世代もいれば、年の離れた友人もいる。

 

言われてみればぼくの仮面の数は普通より多い。

これからもっと仮面は増えていく。

楽しみだ。

 

ちなみに、

人間のほかに、ゴリラは役割を演じることができるらしい。

ゴリラは父親になった瞬間に、父親としての役割を演じることができる。

 

しかし、役割を演じることはできても、演じ分けることはできない。

人間を人間たらしめているのは演じ分けるという行為。

これはほかの動物にはマネできない。

 

だから、本当の自分なんてないし、演じ分けている自分が本当の自分なんだよってこと。

 

アメリカ人はコミュニケーション能力が高くて、日本人はシャイなのか?

よく、日本人はシャイだと言われる。

アメリカ人はオープンでコミュニケーション能力が高いと言われる。

 

じゃあ、それはなぜか?

アメリカは開拓の歴史が浅い。

そして、色んな人種、民族の人が混在している。

だから、初対面でいち早く自分は安全な存在であると示すことが重要らしい

 

だから、話しかける。

自分は安全な存在であることを示す。

コミュニケーションをとろうとする。

 

そうしないと、不安なのだ。

居心地が悪いのだ。

 

逆に、日本は、日本人が大半を占めている。

村とか、決まったコミュニティの中で一生を過ごすことが多いのでいちいちコミュニケーションをとる必要がなく、空気を読むとか、察するという行為が重要になる。

 

だから人と違うことをするのが不安なのだ。

わざわざ話しかける必要がないのだ。

 

アメリカ人の方がコミュニケーション能力が高いとかそういうことじゃなくて、歴史と文化の違い。

 

いまの日本の教育で教えているのは浅いリーダーシップと浅いグローバル思考。

英語ができればいいわけじゃない、MBAを持っていればいいわけじゃない。

 

人は分かり合えないという前提で話し合える人、異文化に畏れと敬意を抱ける人、社会的弱者のことを理解できる人、論理的に理解できない人のことを理解できる人が、これからの世界で求められる人。

だから、コミュニケーション能力とか、グローバルな人材とか、リーダーシップとかいう言葉にいちいち踊らされなくていいんだよって。

 

どうやったら伝わるのか

ワークショップでぼくが「おお!」と思ったひとことがある。

 

「”引く”というのはイメージの共有ができてない時点で、つよい主張を受けるから起こるんだよ。」

普段何気なく使っている言葉を、論理的に表現されてゾクッとした。

 

これはオリザさんが劇作家だから、普段から意識していることなんだろうなぁ。

演劇って、世界観が作れてないと、「え、なにやってんの?」て引かれてしまうものだと思う。

 

だって、実際そこにはなにもなくて、すべては嘘なんだから。

そこに砂漠は”ない”けど、”ある”という世界を創って魅せる。

 

そのためには、イメージの共有が必要不可欠。

これはよくわかる。

プレゼンテーションするときとか、いままでにないアイディアを話すときにも大事な点。

 

まず、相手の頭にあるイメージを使って話す。

共通認識から共通でないものへと徐々に表現をシフトしていけば、”引く”という現象は起こらない。

 

中身がよければ伝わるわけではない。

 

中身がある=オリジナリティがある

オリジナリティがある=共通認識がない

共通認識がない=伝わらない

となるのだから、どんなに中身があるプレゼンテーションでも、伝え方を工夫しなければ伝わらないことを改めて認識した。

 

まとめ

オリザさん、すごい面白かった。

普段は気に留めないようなことも言語化して、論理的に説明してくれたので、だいぶわかりやすかった。

 

あの熱くなくて、期待もない感じが好き。

濃い人生を送ってきた雰囲気が漂ってる。

 

そして、夏に、「オリザさんを呼んでイベントをしたい!」って言って、お金を集め、人を集め、無事ワークショップを実現させた清夏さんもかっこいい。

やる!って言ってちゃんとやり遂げた。

 

協力してよかった。

ぼくもたくさんのことを学ばせてもらった。

ありがとう。

 

ちなみに、ぼくも夏にスタディサプリの講義で宣言した本屋を、来月にはリリースします。

いぇい。

あと、どうでもいい気づきなんだけど、今回のイベントで、メモを取っている人が、9割強が紙にメモっているのが新鮮だった。

ぼくの行くイベントは大半がスマホかパソコンでメモってるから、イベントによって客層も変わるし、メモの取り方も変わるんだなーという発見をした。